A Canary for One

贈り物のカナリア
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Je suis Paris?

"Beirut yesterday; Paris today. Yemen and Syria everyday."@Adammbaron
(「昨日はベイルート。今日はパリ。イエメンやシリアでは毎日だ」)

このツイートにあるように、大規模なテロがレバノンのベイルートで起こり、イエメンやシリアで毎日のように起こっている。共感の限界や、命の重さが人種や国籍によって異なってしまうことへの違和感がつきまとう。プロフィールにフランス国旗が広まるなか、イスラエル・パレスチナ学生会議で先輩の安田さんがあえてレバノンの国旗を選択していたのがよかった。

社会学にはラべリング・セオリーというものがあって、「おまえは不良だ」とレッテルを貼られた者が周囲からそのように扱われ、本当に不良になってしまう事例を指摘している。テロ行為ゆえに社会から不当に扱われるのではなく、「おまえはよそ者だ、負け犬だ、犯罪者だ」という蔑視からテロが生まれるのだという思考の転換が必要ではないのか。結局は社会的包摂の問題にゆきつくのだ。

9/11以前の1998年に上映されたデンゼル・ワシントン主演の『マーシャル・ロー』では、FBIで長年にわたりアメリカに貢献してきたアラブ系男性の家族まで、テロを未然に防ぐため不当に収監される様子を描いている。同時多発テロ以前のアメリカにはこういう想像力がまだあったのだ。でも恐怖は思考を後退させてしまった。

テロへのリアクションとしての連帯と、そこからこぼれ落ちた者はどうするのだろうという疑問が9/11のときのアメリカと被る。

***

テオ・アンゲロプロス

ギリシャはイスラエルと同様、近世ヨーロッパを背負ってしまう記号だった。
現代ギリシャは古代ギリシャと隔絶されながら、それへの過剰な思いの受け皿になろうと葛藤してきた。ゆえに、記号としてのギリシャと現実との摩擦を見すえたものが現代のギリシャなのだ。そうでなければテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」から「シテール島への船出」、そして、すでに現在のEUのなかでの翻弄されるギリシャを25年前の冷戦の終結以前に予言したような「霧の中の風景」という一連の作品はあり得ない。

「旅芸人の記録」の中でナチズムと内戦に翻弄される「ギリシャ悲劇」は、もはや演じる場所もない空虚な古典かもしれない。
「シテール島」だって、共産党パルチザンとしてナチスから内戦までを戦った老いたコミュニストの帰郷の物語。これらの作品には現代性は見られないように思える。でも違う。

アンゲロプロスのどの映画にも、澄み切った青いエーゲ海も壮大なギリシャの遺跡も出てこない。
そこにあるのはいつも雨模様の荒れた山々、そして内戦の傷跡だ。
まるでそれこそがヨーロッパからはがれたギリシャなんだとでも言うように。

同時に言えることは、旅芸人の記録では、まだ一座という集団劇だったけど、シテール島では家族に取り残された老人だったこと。アンゲロプロスのギリシャ観を教えてくれる。
霧の中では2人の兄妹。集団の中にはギリシャというものをもう見つけれらない。ドイツに向かう兄弟は、どこかにたどり着くのか?

どれも暗い映画だが、象徴やメタファーに満ちていて、それは奇妙に人間的だ。
滑稽さを演じるのではなくて、真面目な自分の中に滑稽さを見つめて、自分で微笑んでしまうようなことが、人間的なのだと気づかせてくれる。

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